エリート

wagonthe3rdさんによるツイート引用。
オルテガによると「エリートは他人に選ばれる者でなく、大衆がどう言おうと彼らが果たさない社会的責任・義務を自分で引き受ける者」なんやで。
つまり、大衆の理解を期待せず、しかし大衆を理解して、大衆も含む社会全体のために、社会全体の福祉が実現することを唯一の報酬として考え行動するのがオルテガの言う「エリート」なんよ。そんな覚悟もなしに人の上に立ったつもりの奴、逆に人を引き摺りおろすことばかりに夢中な奴への批判なんよ。(中略)
ああ、典型的な「持ち上げる方も批判する方も読み違えてる」パターンなんすわ、オルテガは。「いまではエリートも大衆に媚びざるをえなくなっている」は大間違いで、真のエリートは必要なら「迎合する振り」さえするんですわ、社会全体のためなら。少なくとも迎合批判も恐れない。
「エリート」の言動にすら、大衆が影響力を持つっちゅうのはまさにオルテガの主題やからね。(中略)結果的に大衆が幸福になればええんやと思う。『泣いた赤鬼』の「青鬼」役を時には買って出なあかんのが、「エリート」 』


エリートと大衆って考えると避けて通れないのがオルテガって人らしい。結構色々な人が引用するけど読んでいない。
この通りならエリート教育なんてありえないだろう。先生に言われたから義務を引き受けますなんてエリートじゃない。大学に選んでもらってエリートになるなんてエリートじゃない。
大衆にあれしろこれしろ、エリートに従えっていうのも別にエリートの条件じゃないな。責任や義務を引き受けていない人に引き受けろって言う、そんな責任や義務って誰にあるんだろう。大衆にあるわけじゃないよな。そんな義務ないのに引き受けたつもりなのか。そういうことも含めてエリートが引き受けるべきって言うのは大衆の言い分だろうけど、それが自称エリートの階層を作っちゃうんだろうな。


大衆について語ること自体がエリートの振る舞いではないんだろうな。大衆の振る舞いを自分のこととして責任や義務を果たそうとするのに、他人事として語るなんておかしな話だ。オルテガって人も自分が大衆であることを感じていたんだろうな。
オルテガを読むなんて大衆のやることじゃないんだろうけど、オルテガを語り、エリートを語り、大衆を語るのは大衆的な振る舞いなんだろう。そこに気づかないとエリート気取りになっちゃうんだろうな。


青鬼役を買って出る。でも本人は何故か引き受けちゃうんだろうね。エリートだから引き受けるんじゃなくて、引き受けちゃったからエリートになっちゃう。
法律で定めれれてもいないのになぜそんなことをしてくれるのか、誰にも理解されないかもしれない。その結果どうなるのかは分からない。もしかしてエリート青鬼本人にとっても。
後から気づいてしまったらせめて泣くぐらいはいいのかな。大衆赤鬼としては。


誰が青鬼で誰が赤鬼か決まって固定しているってわけではないような気もする。人間だし。
青鬼も赤鬼も1人の人間のなかにいるんじゃないかな。
それなら義務を引き受けることも、誰かが義務を引き受けてくれていたことに気づくこともできるだろうし。