内田樹は信用できない

そういう話題に触れたので、何故なのかを考える。
結構愛読しているし、ファンだけど信用できないということらしい。ほうほう。
顔つきや声が信用できない…。まあイメージとは違ったけれど。
自分の本棚にも結構ある。


「ためらいの倫理学」再読。こういうときは最初の著作を読む。
文庫版12pまえがき
総じてこの本の中でやっていることは、「そちらにはそちらの言い分があり、こちらにはこちらの言い分がある。どうです、ここは一つナカとって……」という、ふつうの組織的人間が日々行っている「調整術」に類したものである。


まあそういう人だからだろう。
そういう人は味方としては信用できない。相手の言い分を聞いてナカとろうなんて、ファンで親しみを感じるほどの人には言って欲しくない。黙って味方についてほしい。だからファンのはずなのに信用できなくなる。
こちらの言い分が正しいとは言ってくれない。こっちは居着いて離れられないのに。


本を読んでいる間は内田樹の思考に沿ってそういう立場でいられる。次第に頭の中で内田樹みたいな思考になってあちらの言い分こちらの言い分って両方を聞いてナカとってという考えが習慣化する。
そういう思考法に慣れていくと、その結果実際の内田樹の行動に納得がいかなくなる。
教育問題については居着いているんじゃないのかと。反論したくなる。


居着く。居着けば負ける。死ぬ。
でも何にもどこにも居着かないというのは多分人間じゃない。居着く根源が肉体だから。
それでも顔や声が居着くなといっている。


それでも教育問題には居着く。その姿から弟子は最後の学びを得るのだろう。
ためらっておじさんでえらくて態度がわるいから一々言わないかもしれないけれど。