評価経済社会 その51

仮説
評価するを無時間モデル。
褒めるを有時間モデルと考える。


評価は瞬間で切り取られる。そのときの評価。第一印象、断片的。
その時の点数。その時のテストで40点、その後で同じ問題を解けて100点ですと言ってもしょうがない。
これが世界中の誰もが誰もにつけるようになる世界。断片の世界。


褒めるは時間が必要。その人の変化が見ることが必要。時間を一緒に過ごすことが必要。
たとえ評価にならなくても、40点から100点になったその間を見ていることが必要。
これは特定の人からしか貰えない。一緒に時間を過ごす人。


評価と褒めるは相性が悪い。評価は幾らでも瞬間的にとれる。褒めるは時間を過ごしてもらわないと受け取れない。親密なコミュニティほど褒めるが大きい。
家庭、学校、会社。次第に評価の割合が高くなる。評価ばかりだと親密さが薄れる。そしてあまり褒められないのが社会人。
かといって全ての人を褒めることはできない。すべての人と時間を過ごせないから。


両立は難しい。学級崩壊。好きな人からの評価は嫌なものだから。褒められたいから。
学校の先生より塾の先生の方が簡単。クラスの親密さを考えなくていいから。評価していればいいから。


まして評価経済社会では評価から守ってもらうために、コミュニティにはより親密さを求められるだろう。
でも親密なだけでは他から評価はされない。何もかもを褒めあう関係は気持ちが悪い。


評価されなかったのか褒められなかったのか、その区別をつけることが必要になるんじゃないのかな。
評価されないのは瞬間だけ。過去もあったし次もある。
褒められないのが行き着くところは、過去から今までの全否定。その人自身の否定。
その区別をしないと評価経済社会で死んでしまう。


評価は数字になるけれど、褒めるは数字に多分ならない。
だとしたら褒めるは物語の形をとるだろうか。時間が必要な形。


子どもが初めて評価にさらされる。兄妹や他の子と比較される。
そんなときには僕だって頑張ったもん、て言うだろうな。褒めて欲しい相手にな。
それを聞かなきゃな。