評価経済社会 その40

全ての人がメディア。メディアがその人を表す。


ユーチューブかユーストリームかニコニコか。
フェイスブックミクシィツイッターかグーグルプラスか。その他か。
同じようでいてそれぞれ違う。設計思想が違って独自のカラーがある。


どのメディアかでその人が違う。違うイメージが付く。どのメディアで自分を発表するか。どのメディアから評価を受けるか。
文章、絵、動画、自分自身。どこで発表するかで評価してくれる人が違う。評価が変わる。受け入れられるかどうかも変わる。
そのメディアでの評価が貯まると他のメディアに波及できる。それがブレイクするってことだろう。


どのプラットホームにいるのかでその人のイメージが変わる。匂いが違う。
どこで評価を受けたいか、欲しいものと受け入れられるものが違うこともあるだろう。自分はこんなイメージじゃ嫌だと。
内心では自分がよく行くところの評価を求めているんだろう。居心地のいいメディアの匂いに惹かれている。
様々な面を持つ人は多くの場所でそれぞれの違う面を表現できるんだろう。
自分を多層化するか一つの所に人を呼ぶか。


誰もが一つのプラットホームに乗ることは無いんだろう。全ての人のために作られたものに独自の色は出せない。
新規サービスが生まれるのは色がまだ付いていないことと、人の複雑さは一つの設計思想に乗せきれるものではないからだろう。
大きくなりすぎると魅力が下がるような気がするがフェイスブックツイッターはどうなることか。


舞台演劇、映画、ラジオ、ステージでの演奏。あらゆるものがテレビに集約された。
テレビがメジャー。テレビに映せるものがメジャー。そうやって各分野の一流のものを評価の高いものを、テレビ用にまとめたり薄めたりしたものが広く受け入れられてきた。


今後のテレビは各メディアの有名人、注目度の高い人を紹介することに特化したメディアになるのかもしれない。
ただそこで興味を持たれると他のメディアに移ってしまうんだろう。まとめたり薄まっていないものに直接アクセスする。
テレビはランキングの紹介をするだけ。
続きはウェブで。